

それからN・Mは、後に夫となるN・S(現PJ会長)が興した会社に入った。
N・Sは当時三五歳で大手通販企業を退職したばかりだった。
社長のほか従業員はN・M一人きりでこなしたという。
自然の成り行きで同棲、二一歳で「できちやった婚」に至った。
翌年長男を、二四歳で次男、長女を三二歳で出産して育てつつ仕事を続けていた。
その後主婦と母親業に専念していたN・Mだが、あるとき自ら「お受験ママ」になり切ることで、装いとはそもそも「コスプレ」なのだということに気づく。
着るもの次第で「見せたい自分になれる」。
それがPJのコンセプトとなった。
やがて、夫の要請もあり仕事現場に復帰。
すでに立ち上げていたカタログ『PJ』の四冊目を作ってみたら、これが当たった。
N・Mが二七歳の時だ。
カタログを読んで共感したS・Tともまた急接近。
そして、九四年には株式会社として独立した。
今は生産拠点を中国に置く同社だが、最初のころはニューヨークをはじめアメリカ全土に、N・M白身が商品買い付けに出かけた。
「英語もわからず、ただ体当たり」とN・Mはその当時を回想する。
ところで、そもそもN・Mはなぜ下着通販に着目したのか。
それで下着から始まった大手も多いんでしょう。
ただ、うちと他社との違いは商品ニーズ。
はっきりいって、見た目プラス機能性を重視し、丈夫さとしての品質は追求してない。
デザインを優先させると、どうしても頑丈には作れないんです」たしかに、洗濯を何十べん繰り返しても平気な、ただし見た目は冴えない商品で訴求するか、お洒落で「見せたい自分になれる」ものを掘り下げるかではスタンスは自ずと異なる。
よく聞けば洗い方に問題があったり、他社商品のように扱われちゃうんですね。
ネットを使わず、普通洗いされたら、パッドも水を吸い型崩れします。
俗に『勝負下着』つていうけど、叫なにも恋人のためだけでなく、自分がテンションを上げるために着てもらう下着がうちのウリなんです」背中や胸の開いたドレス、きれいにバストが浮き出たTシャツ……洋服をかっこよく着たいから、「なりたい胸を作る」。
そんなユーザーの願いに、N・Mらは独自のブラの型をいくつも編み出し、応えてきた。
乳房を底から持ち上げ、自胸で谷間を実現するボリュームアップ機能を持ったボムバストブラは、PJがメジャーになるきっかけとなった。
そこまで話を聞いたころ、表紙モデルを務めたタレント、こずえ鈴が帰り支度を済ませ、N・Mに挨拶をし、テスト用のポラロイドにサインを求めた。
N・Mはにこやかに応じ、軽くこずえを抱きしめる。
興奮気味のこずえを尻目に、私はこのカリスマ女社長を独占する後ろめたさを感じた。
カタログに籠められた数の「仕掛け」ところで、ビーチーションのネーミングはN・M夫妻の合作だ。
Pの響きを好んだN・Mが瓢としたやり取りも、この夫婦ならではと思わせる。
N・Mの通称も″みかじょん″という。
そして、S・Tは″リング″だ。
大好きなザーブルーハーツの代表曲『リングリング』から取られたのだという。
みかじょんが言うには「バースデイのない名前、もっとフェアな呼び方がしたかった」。
日本人的な名前による束縛がない、新たな呼び掛けを用いるセンスで、この二人は女の子世代をハートでつかんでいく。
それはリングのコピーや誌面構成にも現れる。
秘密がたくさんある。
例えば、ページをわざと窮屈に見せ、モデルの頭が端で切れたりするのにも、「その先に下着も、うちではあえて赤い背景を使ったりする。
その際モデルはブロンドのショートカットでなくてはならないと決めていた。
そして今回適任者が現れ、やっと実現した」(S・T)該当ページを見れば、マリリン・モンローを努髭とさせるモデルが軽快に動き、オーソドツクスな下着を軽やかに、艶やかに見せることに成功している。
また、ユーザーと等身大の語りかけコピーの懸命な説明にひたすら耳を傾け、「売りたい」という気持ちを汲むことから生まれる。
「人の言葉を理解する悦びに支えられてる」(S・T)夫が正面に出ることはないが、N・Mも「会長のデータで会社がある」と、通販そのもののセオリーを伝授した夫を讃える。
それにしても、女性の下着がこれはどの「表情」を持っており、しっかりとした「立場」に支えられているとは驚きだ。
また、N・M・S・Tコンビ自慢のひとつとして、日本の女の子へベビードールを伝道したことが挙げられる。
「アメリカではポルノ扱い」なものを、男性に「愛されていることのシンボル」として楽しんで着こなすことを提唱、多くの女性に受け入れられた。
そんな女性たちを応援したいとS・Tが言えば、N・Mは、「メッセージを伝えたい」と語る。
S・T曰く、そんなN・Mとは「実際の血の繋がりはなくとも、同じ魔法を使う血族のようなもの」だという。
彼女が敵ではなく、「味方でよかった」と。
間違いなく、この友情を超えた二人の密度がPJの原動力なのだ。
昭和に入る前、種苗通販ほど隆盛した通販業種はなかった。
ただ、明治末期から大正初期にかけて、宇治製茶通販などが、かなり流行したり、また、文具専門店の老舗・伊東屋や、洋書販売の丸善は、そのころすでに通販に乗り出していた。
時計の天賞堂も、前身の印判店の時分からDM(ダイレクトメール)通販を始めていたとし当時はいう。
団扇を広告媒体として利用することが盛んで、現在の折込みチラシ的な扱いをされていた。
その販売元大手であった大阪のS・T整美堂は自社の肉筆団扇地紙の販売に通販を積極的に採り入れたことで知られる。
扇風機もクーラーもない時代、庶民の夏の必需品だった団扇の普及率は、雑誌や新聞以上。
そこに呉服商や酒屋などが自社の名を入れて、得意先に配るのが夏の到来を知らせる風習だった。
この種の広告進物は、夏は団扇、冬は日めくりと決まっており、多くの団扇商がその両方を手がけ、顧客獲得に鎬を削った。
S・T整美堂の社主、S・Tの特筆すべきところは、通販という商法それ自体に刮目し、『実業界』などのビジネス誌に盛んに研究理論を発表、今日でいう通販コンサルタント的な立場を築いたことだ。
S・Tは、10年、20年後、通販は市場において絶対勢力を占める、と予測したのだった。
「化粧品の分野はまさに群雄割拠という状態だが、私はその市場形成のイノベーターとなって久しいFF社、さらに究められた牙城を守るS社に取材した。
この両社、ロケーションもビジネスの方法論も両極端なところが、数多ある取材候補の中から絞り込む要因となった。
まずはFF社横浜本社に出向いた。
トラブルに悩んでいたからなんです。
それは添加物の防腐剤が合わなかったためで、ならば添加物抜きで小分けし、鮮度の高いうちに使い切ればいいという発想で、殺菌剤、酸化防止剤などよけいなものはすべて排除した化粧品を作り、アンプル容器に詰めて、少量完全密封の製造年月日入り使用期限付きで売り出したのです」FF社広報部課長・M・Hは同社の成り立ちをこう説明する。
これが「容器の豪華さも化粧品のうち」という常識を破って大ヒットした。
しかし、Iには長い雌伏の時がある。
小田原ガスを脱サラ後、仲間とコンビニ経営を始めるが失敗。
親戚のクリーニング業を手伝いながら考えついたのが、無添加化粧品だった。
起業は一九八〇年、株式会社となったのはその翌年だ。
同社の経営理念だが、「一つの事業は永久には成長しない」というものがある。
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